東北本線 北白川駅周辺遺構 宮城県 2006.9月現在継続踏査中

 以前から、北白川駅周辺遺構として公開していたコンテンツを更なる調査結果を基に最考証してみた。あくまで、考証であるので、確定では無いことを先にお断りしておく。さらに言えば、かなり私の妄想が多分に含まれているので、皆さんの意見は大歓迎である。もちろん確定的な証拠をお持ちの方がいたら、ぜひとも掲示板なりに投下していただいたら幸いである。
 そもそも事の始まりは、2004年にKM様よる「北白川駅に砂利線があった」という書き込みに始まる。それに基づいて、空中写真を参照すると、確かにそれっぽい軌跡がある。さらに情報になかった、旧線跡らしき築堤まで写っていた。その後、SoWhat?氏からも助言をいただいたことや、相互リンク先、tillさんのニヒト・アイレン等の情報、そしてE.HOBA氏のサイトによって行われた考察なども加わり、城山隧道の謎を含めた白石〜東白石〜北白川〜大河原を巡る路線の変遷がさらに混迷を帯びてくることになるのだが…。
 

1・明治期の北白川駅付近廃線遺構

 この区間は明治20年12月に、郡山〜塩竃(後の塩竃線)間が開通したことに始まる。開業当時設置された駅は白石駅、大河原駅の2つであった。本来なら起点側から順を追って歴史を考証していきたいところであるが、ここでは先に北白川駅開業時期を中心とした考証をしていきたい。全体としては3〜4部構成で、明治期の北白川駅付近、昭和期の北白川駅付近、そして城山隧道付近の関わる遺構、といった感じで進めていきたい。
 
 北白川駅が開業したのは、1910年(明治44年)12月のことであった。この区間の開業から20年以上たってからのことである。さてこの区間の事を調べていくと、ちょうどこの駅開業の時期に、ある出来事が起きている。
 それは明治43年に起きた大水害である。資料によれば、この水害により東北本線が山側に移設されたらしいことが確認できる。これはSo What?さんからもご指摘を受けており、tillさんのHPでも水害の事に触れている。この水害により現在の北白川駅周辺で線路変更が行われた可能性は充分にありうると考えた。それでは、実際に旧線はどこを走っていたのだろうか?ここでは地形図よりも土地の様子がわかりやすい空中写真を参照してみた。写真は北白川駅西方である。


 

 まずこの写真を見ると、はっきりした築堤遺構が目に入ってくる。赤線で引かれた明治期のものと思われる築堤は写真が撮影された昭和50年から20年以上を経た現在でもはっきりと確認できるものだ。







 現在も残る築堤遺構。上の写真の赤線部。












 さて、空中写真で見てもわかるとおりなぜか赤線の右端で築堤はぶっつりと途切れてしまう。さらに言えば、そこから進んで行っても築堤が再び復活することはない。私は、これこそが明治43年の水害による爪痕ではないかと考える。つまりここから先の築堤は水害により損壊してしまったのではないだろうか?実際現地に行ってみると、ちょうど築堤が切れる付近は白石川へ向かって下り急傾斜の砂利道があり、突然築堤が横に現れるという感じだ。ただ、この周辺には砂利線の関連施設があったので、そちらに関連するという可能性もある。続いて、空中写真の続きを追ってみよう。




 この予想ラインは、上の写真から外れた部分(東側)に残る明治期の旧線を利用した県道50号線からのラインを目標に引いている。ただ現在は工場施設部分が更地になっており、土地の高低がつかみづらい。写り混んでいる砂利道も、新幹線建設の為に大型車が出入りしたと思われ、鉄道のラインとはかけ離れたものになってしまっている。ちなみに中央右寄りにきれいな円弧を描いているラインは後述する砂利線の遺構である。


 ちょうど、空中写真の工場があった場所より北側の砂利道の現状。
 ちょっとこれがそのまま鉄道跡だったとは思えない。やはり洪水などにより築堤が崩壊したか、工場建設の影響があるのか。
 いずれ、この付近の確定的な地形図が出てくれば、こんな考証をしなくてもいいのだが、とりあえずあんまり動かないで情報収集してみて、最後の手段でお取り寄せだ。まぁ私が怠慢なだけなのであるが。続いて、東側合流部の空中写真だ。











 この区間は、高田川を渡る手前までほとんどが舗装道路となっているのでラインがよくわかる。実際に現場に行くと、石垣らしい遺構も見ることが出来る。ここで、高田川を渡っていた場所から西を望むと、高度が一段下がっているのがわかる。やはり築堤等の構造物がなければ不自然な地形である。


 仙台方分岐点の様子。
 路肩などを探索するも、遺構は発見できなかった。












 白石方を向いて撮影。
 県道50から外れた市道となっている場所。(県道112号、北白川橋との交差点より西)
 左側には草に隠れて石垣がある。
















 石垣の接写。明治時代の遺構に見られるものとよく似ている。鉄道遺構と考えてよいと思う。


















 高田川を渡る橋梁があったと思われる場所から、白石側を向いて撮影。
 対岸に道はあるが一段下がっている。
















 ここまで明治期のものと思われる遺構を見てきたが、流れとしては

 1・明治20年  路線開通(塩竃まで)
 2・明治43年  水害発生 北白川地区の路盤を消失。復旧に伴い、山側(南側)への線路移設を実施。
 3・明治44年5月頃 おそらくほとんどの路盤復旧工事が完成。開通。
   ※これは明治44年5月にダイヤ改正が行われていることから予想。
 4 明治44年12月 移設路線上に北白川駅開業。同月、同年2度目のダイヤ改正。 

 というような感じであったのではなかろうか。復旧工事などのスピードに関しては、様々な資料を見ていると現在の重機を駆使した工事よりも、明治時代の方が早いのでは?というような例もたくさんある。これは、現代ほど労働者の扱い(就業時間など)が労働者側に立ったものではなかったというようなことも多分に影響しているだろう。土地の取得も、かなり行政側が高圧的な態度で推し進めた時代でもあった。(土地を出せないような輩は云々…といった話も伝え聞く)
 
 とりあえずこの項は終了する。
 次回は昭和期の北白川駅周辺遺構の予定である。

続く

◎2006年度 実地調査協力 宮千代の君 from はくちょうnoお部屋
 上記サイト上でも、当区間の遺構が紹介されています。
参考サイト Nicht eilen(ニヒト アイレン) till氏  「山形県と隣接各県の鉄道遺産」の頁
         STUDIO☆DECのほ〜むぺ〜じ E.HOBA氏 「夏草探検隊」の頁
        T.kamata's Web Site    昭和30年代の鉄道写真

協力 KM氏 So What?氏       

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